賢志のブログ

丸野賢志詩集

旭日

 健やかなる時も、病める時も、豊かなる時も、貧しき時にも、悩める時も、覚る時も、旭日の陽は、東の空から出現し、生命の輪郭を露わにします。 又、人の心にも希望がある限り心の襞を明るく照らし、今日を生き抜く使命を呼び覚ましてくれます。 悩める時にこそ心に希望の種を蒔き、旭日から齎される大いなる恵みに報恩感謝していくのです。 報恩感謝の心は人の生命を豊かにし、より豊穣な恵みを受ける事が出来ます。 心の善き土壌に希望の種を蒔き、その種を慈しむところに、未来の栄光・心の宝が咲き誇るのではないでしょうか。  又希望とは、誓願の祈りによって成就するのではないでしょうか。 真摯なる祈りなき荒野には、枯れ枝しか残りません。 その荒れ果てた荒野を人の心に譬えて言うならば、希望の陽を見失った心は虚無となり、歩むべき道もその指標も無明の闇に覆われ、本尊を捨ててしまいがちです。 無明の闇に呑み込まれそうになった時にこそ祈るのです。 祈りの中でもがき、自問するのです。 自分は如何なる使命を持って生まれてきたのか。 自分の心に何故負の感情が涌いてくるのか。 自分が今日を生きる意義とは何なのか。 自分の心を虚ろにする因果とは何なのか。 自分の存在とは何なのか。 あなたにも、私にもこの本源的煩悩が具わっています。 又同時に、本源的煩悩に侵されながらも、諦める事無く希望の種を蒔き続けるところに、自分の境涯革命の真の意義があるのではないでしょうか。 そして境涯革命によって開かれた、尊極の生命境涯で智慧の宝珠を分かち合う振る舞いこそが衆生の飢え、渇きを癒し救い往けるのではないでしょうか。 最後に、境涯革命によって開かれた、尊極の生命はまさしく旭日の陽であると私は述べたい。

愛のかたち

  これまでに詩を通じて「愛」とは何かをテーマに自己表現してきました。私の愛のかたちは、相手を慈しみ、尊敬し、信じることからその人への愛情表現は変わっていきます。しかし万人がそれぞれの個性・考え方を持っていますので、その人それぞれにあった接し方を考えます。相手の良い感性を引き出してあげられる事が私の目指す愛のかたちです。そのことは、子育てから学んだ事です。無償の愛とは自分が主体となり、相手の生命を守り、教え導く、そして慈悲の心を常に持って育てる事にあると思います。相手に愛を求めるのではなく、自分から胸襟を開き抱きとめてあげる事が、私の目指す愛です。相手の長所を生かしきる為の努力は結果的に自分の幸福の礎となって行きます。今日も皆様が幸福に一歩前進出来る事を祈っています。

慈悲とは  

   慈愛とはあらゆる人に平等に注がれる最高の友情,友愛を意味すると某辞典に書いてありました。 私は幼少時代、食糧難のおりに母親から命を繋ぐ糧を兄弟3人で分かち合う事を教えられました。 自分の子どもの生命を守り抜きたいという、強い母性から生まれてきた感情そのものの行為でした。 私も数十年の時を経て2人の子どもの父親として、自己犠牲の愛を子どもに与えてきました。 しかしある時に、下の長男が一つの食べ物を「パパにあげる、お残しは許しませんで」と私に少ない食べ物を半分分けてくれたのです。 この子の心に人を思いやる精神と、私を守りたいという気持が本能的に芽生えた事を確信した瞬間に、思わず号泣しました。 子は親の鏡と言われますが、親の背中を見て子どもは自己の行いを振り返るのだと感じました。 そして自己犠牲だけでは人を守る事は出来ない、その事を子どもから学びました。  まさしく自己犠牲による愛情は「溺愛」と呼ばれるものと成るでしょう。 時には、子どもの立場からは押し付けの愛だと感じられてしまうことがあるかもしれません。  ここまでは、親と子の関係を論じてきましたが、自分と友だちとの関係に当てはめてみると、その「愛の形」は変わります。 育ってきた環境、親子間の関係性は家族単位で見ると様々であり、親の子育ての考え方、子どもの個性はそれぞれ違います。 「桜梅桃李」の生き方を尊重し、賞賛していく事、それを私は「友愛」と呼んでいます。 その友愛を大切に育んでいくところに、慈悲の連帯が築かれていくのだと確信しております。  最後に慈悲とは「究極の愛」であり、どこまでもその人を愛し、苦楽を共有し、その人を守れる強さを具えていくところに、折伏の慈悲行は実を結ぶと思います。