賢志のブログ

丸野賢志詩集

賢ちゃん日記-3

「私がブログを通じて伝えたい事」-宗教の視点
生ある者には避けて通れない、4つの本源的悩み・迷いがあります。
生・老・病・死
 この問題は本源的悩み・迷いを総じて無明とよみ、この無明が生じた時に、沸き起こってくる感情であり苦しみに他ならないため、深く考えてみたいと思います。
大乗仏教(実教の立場を含め)で説かれる十界論で見ていくと、下  地獄界・餓鬼界・畜生界総じて三悪道、修羅界合わせて四悪趣、人界・天界・四悪趣を合わせて六道、声聞界・縁覚界総じて二乗、菩薩界・仏界を顕したのが十界論と云い、生命境涯を顕したものです。
仏教において、各宗門の教義の浅・深・高・低の悟りによってそれぞれ思想観が違います。
元初の仏である釈迦如来が仏教の開祖であり、永遠の仏とされています。
その釈迦如来が最終的に説いた究極の経典、法華経を得させんがために、段階的に方便で説いた教えを権経、仏の悟った教えを実経と云います。
法華経では方便で説かれた教えを迹門、真実を説いた教えを本門と云います。
さて本題である「生・老・病・死」の本源的無明は、現代の科学力を持ってしても、図り知れないのです。
その理由は生命の三世流転の原理(輪廻の転生)を認めないからであります。
大乗仏教(多くの人を救う教え)と実教(万人平等に救える教え)では、過去世・現在世・未来世の三世(永遠)の生命観で物事を捉えます。
又因果応報を説き、生命は常に変革し、境涯革命によって生命は、本来的に具わった仏性を触発する事によって、一生のうちに成仏する(一生成仏)と説くのが実教である法華経だけです。
つまり法華経こそが、釈迦如来の如意の教えなのです。
その教えを久遠より、時代背景に応じて説いてきた方が釈迦如来・天台大師・伝教大師・妙楽大師・日蓮大聖人であり、段階的に法華経は説かれていく中で、最終的に仏の如意を悟った方が末法時代の御本仏日蓮大聖人です。
その教えに基づいて観ていくと「妙とは蘇生の義なり」と云う教えに行きつきます。
仏の生命をそのまま「南無妙法蓮華経」と顕し、説き弘められましたが、この「妙法蓮華経」とは、我々の生命の当体でもあります。
その所以は、私たちは生まれながらに仏の種を具え持ち生まれてきているからです。
仏の生命は、永遠三世世界を生き生死を「方便」として説くのが、法華経であります。
云い方を変えれば、目が覚めると正常な生命活動が始まり、そこには心が表れます。
一方安息の時は正常な生命活動が低下・停止して、そこに心は消滅します。
消滅という言葉だけでは、不適切かと思いますので補足すると、一時停止します。
(感受する事物が無くなるため)
そして安息と覚醒の間には、心の実態は無でありますが、生命は瞬間瞬間の連続的な活動を続けています。
その原理と生死が、永遠三世世界を流転する原理は同意であり、是を妙と呼び「妙とは常に蘇生の連続であり逆転することの無い道理」なのであります。
譬えて云うならば、冬は必ず春となり、太陽は東から出でて西に沈みます。
そして太陽は、生命に多大な恩恵を齎し、営みを繰り返し、成熟の時を経て安息へと向かいます。
又、快晴・曇りの違いで太陽の状態が不鮮明になりますが、決して消失した訳では無いと云う事を人の生命の本質に見ていく事で無明とは何かという答えが見えてくるのではないでしょうか。
乱筆ながら長々と綴りましたが、是にて一時止めおくことに致します。次回は賢ちゃん日記-4につづきます。最後まで読んで頂いて誠に有難うございます。



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